倉吉 アザレアのまち音楽祭
山陰の名手たちコンサート


第10回 山陰の名手たちコンサート
ごあいさつ



 「プッチーニ讃」




プラバホール アートディレクター 副館長 長岡 愼
(元東京フィルハーモニー交響楽団ホルン奏者)

 本日はご来場を賜りありがとう存じます。今回も推薦委員の先生方にご推挙をいただきました多士済々の演奏家の方々に出演依頼いたしました。
 さて今回は第10回を記念いたしまして、進境著しい山本耕平さんをお招きいたしました。 曲目はプッチーニ(1858-1924)の傑作オペラ「ラ・ボエーム」第1幕より有名なアリアやデュオを4曲と、ヴェルディのアリアを1曲。
 東京フィルハーモニー交響楽団と云うオペラを頻繁に演奏するオーケストラにいた私は、プッチーニのオペラを演奏するたびに、その魔術的とも言える上手(うま)さに驚かされました。
 音楽で場の状況(盛り上がっているor沈んでいるor緊迫しているor爽やかor和やか等々)や、人物の心理(興奮しているor悲しいor甘く切ないor苦しいor恋に落ちる等々)を的確に、しかも物語の進行に合わせて、絶妙な効果を機能的に発揮させる非常に優れた作曲家です。
 特にこの「ラ・ボエーム」は旋律が素晴らしく、口ずさみやすく感情移入がしやすいですね。しかもヴェルディと違って、ホルンにも良い旋律や重要な局面での使用が多く、おいしい曲です。これをある高名なイタリア人指揮者に振ってもらった時、いたるところで「軽さ」が求められ、それがこのオペラを特徴付けるポイントの一つだと思います。特に冒頭の11小節、譜面上ではフォルティッシモに、アクセントまで付いているので、力強く演奏し始めるとたちまち“メッツァ・ヴォーチェ!モルト・レッジェーロ・エ・カンターレ・プレゴ!”(半分の音量で!すごく軽く、そして歌って、どうぞ!)と指示が飛びます。そして“アンコーラ・ダカーポ!”(もう一度最初から!)ドイツ的「重さ」を徹底的に排除したかったようで、こういうところをなおざりにしないのが、一流の証しだと思いますが、しつこかったなぁ。
 本日演奏される出会いから恋の花咲く第1幕、どうぞお楽しみに!






 「音楽するということ



 アザレアのまち音楽祭 アートディレクター 計羽孝之

 あらゆる表現者は、常に自然体で臨まなければならないと言われます。この自然体とは、日常生活で、いつも平衡感覚を保ち続けることだと思います。平衡感覚に逆らえば、作り物の自分となり、自然体を失います。多様な芸術分野の中で、音楽家ほど、師を敬愛し続ける方が多いと感じています。その教えを乞い続けるのです。そして、何かに縛られたような演奏になってしまうことが多々あります。作り物の自分になっていることにも気が付かず…。自分自身を、自分が感じていることを、思い切って出した演奏をすべきなのです。しかし、自分の感じていることを、それを表現できる技術があるかどうかが問われるのです。この絶妙なバランスが、演奏家自身の音楽となるのであり、自分の想いを音に託せるかが問われるのです。そして自分自身の想いを出すために、テクニックを越えた人間の生き方やその経験を豊かにしなければならないでしょう。
 ミュージッキング(音楽する)と言う言葉があります。演奏は演奏家のためであり、聴衆のものなのです。演奏者自らの美意識、美的価値観に従って演奏すべきであり、誰かの価値観では、借り物の人間として自然体のバランスを失ってしまうでしょう。演奏家自身の美意識を育てるためには、生まれ持った才能(音に対する反応能力)に、音と音との関係性に何かを感じる感性の蓄積が必要になります。それは、過去の日常生活での体験、諸々の記憶が不可欠なのです。音楽が意味を持つのは、呼び起こされた記憶が瞬間的に感性のフィルターとなって、感情が生まれるからなのです。この繰り返しと積み重ねが音楽に意味を与えるのです。
 倉吉未来中心大ホール及びプラバホールは、理想的なアクースティックなホールです。柔らかな響きに包まれてエステティックな音楽を紡ぎだすホールなのです。その響きを生かしてくれる演奏家の存在によって、多くの聴衆を育んできました。「山陰の名手たちコンサート」は、「音楽する」と言う志を持った選りすぐりの演奏家たちの祭典です。どうぞ、お楽しみください。