アザレアのまち音楽祭が始まって四半世紀が過ぎました。もともと、倉吉文化団体協議会に加入している音楽団体の合同発表会であった「連合公演」が、各団体や個人の演奏をじっくり聴きたいという聴衆の要請に応えて現在のスタイルが定着していきました。その中で、山陰に在住する演奏家たちが、毎年繰り返してコンサート公演する中で、芸術家として自立し育っていった経緯があります。特にソリストたちの演奏力は、著しい向上が見られました。現在のアザレアのまち音楽祭は、アマとかプロという範疇を越えた演奏家が出演し、高い信頼と待望し愛聴していただけるロイヤリティの高い顧客の支持を得るに至っています。
今回より、アザレアのまち音楽祭に出演する演奏家は、どのような「音楽家精神」が必要かについて、思いつくまま書いてみたいと思います。
[芸術の大衆化]
音楽が、音楽芸術として成立するためには、次のような三つの段階が必要です。第一は、音楽を創り出す作曲家。第二は、それを音として表現する演奏家。第三は表現された音楽を芸術として鑑賞する聴衆の存在が必須なのです。音楽でも美術でも、芸術のポピュリズムの出発点になった20世紀初頭以後の芸術の大衆化は、アルチザンとしての修練から得られる高い技術的な表現は軽視され、誰でも安易に芸術することが可能な現代に至っています。特に美術の世界では、シュールリアリズムという思想が広がり、何かを表現しようとする「意識下にあるものを美しい」としたのです。と言う事は、全ての人間が「その意思の有無」と関わり無く芸術家として存在できると言う事であり、芸術家として美しい人生を生きることこそが「芸術なんだ」と主張しているのです。子どもの「何の屈託も無い」殴り描きした絵にも、美を感じるようになってしまったのが現代なのです。かつては、享楽のためだけにある世俗音楽と言わしめた大衆音楽にさえ、私たちの感性は、芸術を感じるのです。調性のある音楽からカデンツが壊され、無調の音楽が幅を利かせて、クラシックもロックの世界も、これまでに無い新しい魅力的な音楽を作り続けています。もしかしたら、この時代の流れも、世界文化の大きな時代の波(拡散・肥大と集束・収縮)にシンクロしているだけなのかも知れません。そして、21世紀を迎えた今日、大きな文化的集束期に入って、新しい価値観の誕生を模索するのが芸術家のミッションであるのかもしれません。
[技術がなければ]
そうは言ってもクラシカル音楽の演奏は、他分野の芸術と異なりプロフェッショナルに高い技術的レベルを持ち合わせなければ、音楽芸術の真髄を追求し、音楽することの本質を見極めることは出来ません。どんな芸術的に高い表現思考を持ち合わせていても、それを表に現す高い技術の裏づけがなければ、何も無いと同じです。しかし、如何に高い技術的レベルを持っていたとしても、「何を表現するのか」という芸術的に高い表現思考が存在しなければ、それだけでは単なるエチュードにしか過ぎません。しかし、この論には大きな落とし穴があります。そもそも技術とは、何かの目的を達成させるための手段であり、目的の存在しないところに手段たる技術は、生まれないのです。と言う事は、逆に高い技術があると言う事は、その高い技術を手段にしなければ表現できない「想い」や「芸術的に高い表現思考」が存在するとも言えるのです。この事は、音楽大学で厳しいレッスンを受けて来た人であれば、誰でも納得できる話です。問題は、強い「想い」や「芸術的に高い表現思考」を持っていても、それを表現するに必要な技術を持ち合わせない大方の人が、鑑賞者として優れた芸術活動の恵が感受できるかどうかなのです。
[一流好みの似非文化人]
自称専門家、自称演奏家として自負している者の多くが、その存在が見えない己の「芸術的高度な表現思考」を満足させるには、その思考と同等若しくはそれ以上の表現思考を持った演奏しか聴かない事で、自分のスタンスを保持しようとするのです。下世話に言えば一流好みの似非文化人が多いのは、教養主義的な音楽鑑賞団体のもたらした悪弊なのです。ですから、子どもたちやお年寄りには聴衆としての「芸術的高度な表現思考」が無いと決め付け、レベルの低い音楽演奏を平気で提供するアマチュア団体の厚顔無恥さがはばかれるのです。
[音楽の力で感動を]
「レベルの低い音楽演奏」とは、音楽自体によって感動を生み出さないことです。幼稚園や小学校などのお遊戯会で、私たちは可愛らしい子どもたちの懸命さや美しい表情に感動しますが、それはほとんど音楽の力ではありません。大人のアマチュア合唱グループでも、音楽に感動し精一杯の力を出し切り歌っている姿に、聴衆は感動しているだけです。間違っても、合唱音楽の「芸術的高度な表現思考」に接して感動しているのではないはずです。それも音楽表現の一部ではありますが…。しかし、子どもでも大人のアマチュア合唱団でも、常に「芸術的高度な表現思考」を追い続けていることだけは確かであり、尊敬に値する活動です。問題は、むしろ、自分たちの持ち合わせている能力を十全に使うことに専念するべきで、無いものねだりをしないことが肝要です。いくら、芸術の大衆化が進んだと言っても、4〜5歳の頃からレッスンを開始しないと物にならないと言われるヴァイオリンやピアノでは、さすがにアマチュアの姿は見られません。しかし、歌うという人間の根源に関わる分野に於いては、アマチュアが台頭しています。音楽大学に入って専門的な教育を受けなければ、到底歌えないレベルの音楽表現を、技術的レディネスが無いままに「芸術的高度な表現思考」を求める姿はドン・キホーテも苦笑するでしょう。
最も大切な事は、「自分たちの持ち合わせている能力を十全に使うことに専念するべき」なのです。これは、音楽に限って言えることですが、アマチュアもプロフェッショナルも同じです。特に、プロと言われる音楽家は、自分の能力を超えるような音楽表現を求めないものです。プロの能力は、アマチュアとは完全に乖離した差があるものです。宮沢賢治風に言えば赤ちゃんと兵隊くらいの差です。
[感動を生み出すのは技術ではない]
しかし、音楽が創り出す感動の世界は、常に高い技術的レベルが保持されなければ達成できないという訳ではありません。それぞれがお持ちになっている技術的能力で、感動を生み出す優れた芸術活動は可能なのです。アザレアのまち音楽祭で求めている感動の世界は、実はそれなのです。地域に在住する演奏家は、アザレアのまち音楽祭24年の歩みの中で、実感として感動の世界を掴んで来ています。それは、優れた聴衆としてのアマチュア音楽家の本物の感動体験が作り出した世界だと確信しています。
[プロって何?]
アザレアのまち音楽祭のサロンコンサートに登場していただく演奏家は、プロとしての意識と実力を持っておられる方々ばかりです。プロフェッショナルとは、スペシャリストの事であり、単に音楽を高いレベルで演奏する人とは、似て非なるものだと考えています。プロとは「プロフェッス=公言する」を語源とし、神に己の生き様を明言した者の事であるのです。したがって、自身の音楽するミッションを公言し、そのような生き方を告白する演奏を続けることなのです。ですから、アザレアのまち音楽祭に登場する演奏家たちは、聴衆に深い感動と生きる喜びを提供できるのです。
【1】演奏家として感動を創り出す姿勢を持っているか
本物の音楽を演奏することは、どんなにささいなコンサートでも、聴衆に深い感動を与えるのです。ギャランティの有無や高低よりも、自分の美しい生き方が、ますます本物志向であるかどうかが問われる時代になっています。この本物志向によって、聴衆の感動を勝ち取ることで、演奏家の生き様は益々美しくなるのです。
演奏家としての美しい生き方とは、自らが感動的な日々を過ごす事につきます。とは言っても、そう簡単に毎日の生活の中から感動し体験を意識するのは難しい事です。そして、そんなに感動があるものではないと言っている人が沢山います。それは、ただ気付かないだけのことだと思います。指揮者の松岡究氏はブログで、日々の体験を綴っておられますが、ほぼ毎日が新しい音楽との出会いや、困難との遭遇等が書かれており、一番身近な自分の出来事で毎日を感動の思い出づくりにしておられます。毎日の生活を起伏のあるものにすることで、予想外の感動が訪れるものなのです。
【2】演奏家としての困難を追い求めよ
演奏家に限った事ではありませんが、人生に目標のない事ほどつまらないものはありません。地域に在住する演奏家は、毎年のアザレアのまち音楽祭に参加することを目標に、毎年のテーマを持ち、毎月の練習到達計画をたて、毎日のノルマをかせて目標を与え、毎日の生活が自然に活性化して行くのです。無為に繰り返えされるだけの惰性に流された生活を体験してしまうと芸術家としての自立心はほぼ崩壊してしまうでしょう。芸術家としての自尊心と実力を堅持するためには、日々の芸術目標の設定が必要であり、常に人生の目的は何か、を自問自答しなければなりません。芸術家としての人生は短いものです。
そこで大切なのは、人間として「生きることの困難」から逃げてはいけないということです。現代の演奏家は中世の工房職人と違い、演奏の職人ではないのです。その認識が無ければ芸術家としてのスタンスは消えます。社会一般に於いて、演奏家の地位は決して高いものではありません。演奏家としてのスタンスを主張する事は、困難をあえて追いかける事にもなりかねません。しかし、PROFESSを意識し、むしろ向かって行くという気概を持つことで、現実の困難の方が逃げていくものです。問題の解決は誠心誠意を尽くした正面突破が最も効果的です。
地方に在住する演奏家の直面する困難は、生活の手段とする職業との折り合いの付け方がその大半でしょう。特に、仕事社会が生活社会と重なった日本の文化は、プライベートが存在しない社会でもあります。私個人の趣味の世界がわずかに残されているだけ、と言うのが現実でしょう。そのような社会の中であえて芸術家を標榜し、その生き様を提示する事の方が、もしかしたら困難の追及とその解放による恵を得る事になるかもしれません。それがアザレアのまち音楽祭に登場するプロフェッショナルというものなのです。
【3】悩まないことで成長する
どんな悩みであろうと、大抵は理由なんか大して無いのが普通です。人それぞれには独自の悩みがあるでしょうが、落ち込んだり、無闇に虚しさが押し寄せたりするものです。しかし、思い煩うことはありません。それは単に脳細胞に、特定の化学物質が過剰になったか、不足しているかなのだと楽天的になる事です。その証拠に、悩みごとを書き出してみると、直ぐに解決の糸口が見つかるものなのです。悩み事を頭の中でぐるぐると回しているだけで、悩みが新しい悩みを生んで更に悩む状態になるだけです。悩みが出来たら、その悩みを頭の中から追い出してシンプルにすることです。