新田さんは、毎回ギリギリまでプログラムを練っています。一見優柔不断に思えますが、練りに練ったプログラミング構築のための試行錯誤のためのようです。新田さんと言えば、会えばいつもにこにこして満面の笑みを携え、あっけらかんとしているように見えます。しかし、かなり深いところで悩み、苦しみ、歓びや悲しみを超えた次元での音楽作りをしているように思われます。ですから、いつも誰かと一味違う新田流のテンポとダイナミズムを持ち、聴くものの心の襞(ひだ)に語りかける言語をものにしているのでしょう。
先日、凄まじいばかりのテクニックと、才気走ってギラギラした音楽をぶつけてくるピアニストの演奏を聴きました。とてもじゃないが聴いていられないほど押し付けがましい音楽に、もううんざりしてしまった。その時、新田さんの音楽は、これとはかなり違うな、もしかしたら対極にあるなと、感じた。それは、若いピアニストが憧れのピアニストを目指し、技術的にてクリアする。すると今度は、自分の思いのままにテクニックが操れるようになる。表現の思いとそれを可能にする技術的な力量が備わると、自我を出すことが自己表現だと誤解する。いわゆる若気の至りに、留まっているだけの演奏になっていたのだ。自我を出すことは、技術的な問題をクリアすれば、誰だって出来ることだし、それは良い演奏とはいえない。新田さんのピアノの凄さは、実はそこにあると感じているのです。曲のもつ内面的な訴えを、どうすれば聴衆に伝えられるのかと言う葛藤が出来ているのです。演奏者の「テンポとリズム」を、聴衆の「テンポとリズム」にシンクロさせる天性の感性が備わっているのではないかと感じるのです。ですから、たとえどんなミスタッチがあろうと音が抜けようが、その演奏にとって致命傷にはならない。なぜなら、直接に音楽を聴衆の心に共振させ、聴衆自身に潜在する内的な音楽を共鳴させ、動かしてしまうからなのでしょう。
今回のコンサートは、新田さんの原点とも言うべきカウベルホールでの公演です。それは、ホールが出来た時、命を受けて浜松まで行き、輸入されたばかりのスタインウエイの中から自らが選んだピアノを演奏するのです。大変思い入れのあるコンサートになります。それに、ショパン・アーベントと呼ぶべきオール・ショパンのプログラムは、聴衆にとってこの上ない歓びでしょう。
最高のホールで、私たちの鼓動に連鎖してくる音楽の躍動感を、どうぞお楽しみください。