倉吉 アザレアのまち音楽祭
山陰の名手たちコンサート


第11回 山陰の名手たちコンサート
ごあいさつ



 もうひとりの自分




プラバホール芸術監督 長岡 愼

 今年はサックスを発明し、それに自らの名を命名した名高い楽器製作者アドルフ・サックス生誕200年の記念の年。それにちなんで、二人のサックス奏者に出演の依頼をしました。
 そして各ジャンル、私たちの街の優れた音楽家「山陰の名手たち」の演奏をお聴きいただきます。
 彼らが音楽と出会ってから今日まで、決して平坦な道程ではなかったはず。周りによく「好きな事が出来て良かったね」と私もさんざん言われましたが、そのような実感は皆無です。練習して出来る様になればなるほど、勉強してわかればわかるほど、より高い壁が立ちはだかるものだと思います。
 クラシック音楽は作曲家へのリスペクトで成り立っています。しかも聴いている人を楽しませなくてはならない。落語の「寝床」になってはいけません。錦織圭君のように、良きコーチを得られればいいのですが、現実的には難しい。
 ではどうすれば良いのか。それは古くから先達が言うように、上空から俯瞰する「もうひとりの自分」を持つことではないでしょうか。近頃は録音録画がごく手軽にできるので、これらを活用するのもプロセスとしては「あり」ですが、同時に「モニター」する感覚が大切だと思います。自分の演奏のみならず、共演者或は、聴衆の反応や、空気、そこにある全てを感じて「なすべきをなそうとする」と、自分の「立ち位置を知る」修業ができるのではないでしょうか。
 日々修行に励む本日の演奏家の皆さんは、本当に素晴らしく多様なその人なりの活動に裏付けされた「曲目」を演奏されます。
 今回の出演者すべての方に、心からのエールを贈るものであります。






 「一期一会を積極的な時間に!



 アザレアのまち音楽祭 アートディレクター 計羽孝之

 山陰の名手たちコンサートは、島根県サイドとの共催になって11年目を迎えます。鳥取県サイドは、アザレアのまち音楽祭の一環として開催してきましたが、こちらの音楽祭は32回を数えました。その間、地域在住の演奏家を毎回すべて聴いてきましたが、演奏家の栄枯盛衰を目の当たりにしてきました。ソリストにとつて、演奏力の自己鍛錬を怠っては、その音楽力は目に見えて衰退するものです。しかし、演奏家の中には、自己陶酔型の人間がどうしても存在するもので、自分を偽り、傷口を舐めては忘却し、自分の音楽を鑑みないで音楽家然として聴衆を蔑にする演奏も多々ありました。「山陰の名手たちコンサート」は、それらの音楽家とは一線を隔し、自己研鑚を続ける中で、音楽することの本当の意味を掴んできている方々ばかりです。かつて聴衆に愛された演奏家でも、聴衆を選ぶ傲慢さが顕在化し、聴衆によって淘汰された方々も多々あります。音楽は、聴衆在って初めて音楽として認識される芸術なのです。歌を忘れたカナリヤは、忘れられるのです。
 地域在住の演奏家を長年聴いて、その音楽家としての成熟を見守れることほどうれしいことはありません。ソリストは言うに及ばず伴奏という共演者の力量アップは、目を見張るものがあります。これまで随分と伴奏ピアニストに注文を付けてきましたが、現在ではほとんど不要です。共演ピアニストが、単なるリズム合せや、音量バランスでよしとせず、深いアナリーゼの先に必要な表現の手段を掴んできています。ですから、器楽曲でも声楽曲でも、聴衆を誘うドラマを作ってみせるのは、ピアニストなのかも知れません。これは、素晴らしいことです。音楽するということが、人生にとって「積極的な時間」を作り出しているのです。その音楽をお聴きいただく皆様にとって、この一期一会のコンサートが喜びの時間となりますように。