倉吉 アザレアのまち音楽祭
第29回 倉吉 アザレアのまち音楽祭2011
ごあいさつ

平成23年3月

音楽をライフワークとする演奏家たち

アザレアのまち音楽祭 芸術監督 計羽孝之

 アザレアのまち音楽祭に登場する演奏家を、私たちはアマとかプロという範疇で考えていません。アザレアのまち音楽祭のミッションは、地域に在住する音楽家が、音楽活動をライフワークとして生きることを支援し、共に美しい社会をつくりだすことを目指しています。人生を生きるのにプロアマも無いように、誰でもが美しい音楽的な成長を真摯に求めれば、誰にだって音楽の女神を手にすることが出来ます。そして、私たちはこころ豊かな生活の糸口を見つけ出すことが可能になるのです。そんな意味で、アザレアのまち音楽祭は、音楽をライフワークとする演奏家を招聘し、より良い音楽環境の醸成を促したいと考えています。
 音楽をライフワークにするとは、音楽を単に職業にすることではありません。音楽を生きる証しにすることです。アザレアのまち音楽祭に登場する演奏家のほとんどは、音楽大学で厳しい訓練と専門的な教育を受けています。大学をでれば、ある程度の技術的なレベルは担保されます。しかし、音楽大学を出たからと言って優れた音楽家になれる訳ではありません。教えられた技術的なレベルは担保出来ますが、それだけでは音楽家にはなれないのです。毎年7000人以上の音楽家の卵が産まれていますが、孵化してひよこになり、やがて成鳥になるのは、ほんの一握りです。その一握りとは、「音楽を求め続ける姿勢」を持ち続けている人のことなのです。音大のピアノ科を出た人であれば、誰だってショパンぐらいは弾ける技術を持っていますし、自分なりの、又は受けたレッスンの通り弾きこなすことぐらいは出来るでしょう。そんな人は日本国中ごまんといるはずですが、果たして音楽家と容認されるかといえば、否と言うことになります。ただ音楽が好きで音楽を作ったり演奏したりしているだけでは、音楽家と呼べるものではないのです。音楽大学を出たからと言って音楽家にはなれないのです。音楽大学では音楽をつくる技術を教えてくれますが、音楽家になる方法、音楽の生き方は教えてくれないからです。
 優れた音楽家になるためには、本当は技術的な「うまい」「へた」の段階ではないのです。著名なピアニストだって、誰が聴いてもとんでもなくへたくそだが、その音楽は魅力的だと社会的に容認され、多くの聴衆から支持される音楽家もいるのです。それはなぜでしょうか。
 音楽大学では音楽家の卵を量産し、高いレベルの演奏技術を持った演奏家をどんどん輩出し、日本中に蔓延しはじめて久しくなります。演奏技術が発達して、表現するだけなら誰でも簡単にできる時代になっています。そうすると、音楽家としてやるべきことがはっきり見えてくるはずですが、何も見えない人が大勢います。ピアノ演奏の技術的な克服に努力し、それが出来るようになると、普通はライフワークを考え始めるものです。演奏の技術を克服していけば更に人間としてやるべきことが明確になるはずなのです。つまり、音楽家として、人間の原点が分かってくるはずです。そこで初めて問題になるのが、演奏に「音楽作りの裏側」があるかどうかなのです。技術の問題は表側であり、その表現された音楽の中に奏者の生き方とか思想、いわば「生活のリアリティー」が音楽の裏に見えるかどうかなのです。フジコ・ヘミングさんなんて、へたなピアノを弾いているが、彼女の音楽には、人間の自由にたいして真摯に生きる姿が見え、その叫びを音楽に聴いてしまうのです。だから多くの聴衆が感動してしまう。
 音楽の世界では、テクニックの巧い下手で音楽の完成度を図る傾向があるものです。テクニック万能の考え方は、プロモーターがビジネスとして考えるところから生まれたのでしょう。価値観が完全にテクニック一辺倒になっているためです。音楽家にとって、テクニックは必要不可欠なものですが、音楽の裏側がなくてもテクニックがあれば通用してしまう傾向があるのです。ですから、ある度のテクニックが身につけば自分は音楽家になれると勘違いしてしまう。
 大学出たての二十代では凄い意気込みを持って活動していても、三十代になるとやめてしまう傾向がある。音楽で生活の糧を得られないほとんどの音楽家は、生活の糧を得る仕事に就くことで、社会的な責任を果たしたと感じたりする。つまり、安定した収入のある人生を選択してしまうのだ。結婚して子供が出来れば、自分の人生は子どもの人生になるのです。子供は自分たちの創造作品だから、音楽から遠ざかっても、問題を感じなくなる。すると家族が自分の音楽の観客であることだけで満足してしまう。と言うふうに自分を納得させる理由付けをしてしまい、音楽が手慰みに瓦解するのです。しかし、生活の糧を得ることと、社会的な責任を果たすこととは何ら関係はないはずです。生活の糧を得ることを心配しながら、ライフワークを追及していくことこそが音楽家としての外せない条件だと思います。クラシック音楽の演奏家は、ほとんどそのような方たちです。音楽を演奏する、コンサートをするとは、社会に自分の生きざまを問う作業なのです。それが出来るかどうかが芸術家として存在する必須条件となるのです。「自分の生き方」と言う表現の裏側を、社会に問う作業をしているかどうかが、芸術家になれるかどうかにつながるのです。
 音楽を趣味化していくと、ライフワークを失い、音楽で人生を問う必要を感じなくなり、いい加減な妥協をしていると音楽家は閉鎖的になっていくものです。そこが問題なのです。自分だけの世界や小さな仲間内にこもってしまい、現実の社会を失っていくのです。社会の動きに、自分の考え方を問うことが必要なのです。
 技術的才能は貯金のようなものだと感じています。金は無いよりあった方がいいに決まっているし、金で買えるだけのものは確実に手に入るからです。しかし、その預金残高の高いものだけが本物の演奏家になるわけではないのです。現代は第三次産業の時代だと言われますが、これを芸術に置き換えれば、誰でもが芸術家としてサービスを提供できる立場であり、誰でもが芸術的サービスを受ける立場になっているということです。そして、サービス・レベルはどんどん高まり、既に音楽の世界では、プロとかアマという範疇で音楽家を峻別できる時代は過ぎ去っているのです。生きるために必要な糧を得る方法に音楽を選び、職業とすることがプロであるなら、街の音楽教室の先生も自分はプロだと公言すればいいだけのことです。しかし、「生きるための糧」を他に求め、音楽を自分の人生にしている音楽家は沢山います。ある意味では、生きる糧を心配しながら、自身の音楽芸術行動を純粋に貫けるのは、彼らの特権かもしれません。アザレアのまち音楽祭に参加する演奏家は、どなたも「自分の生き方」と言う表現の裏側を、社会に問う作業をしている方々ばかりなのです。





平成23年3月

地域に根ざした芸術活動は、「心と心をつなぐ架け橋」!

倉吉市長 石田耕太郎

 第29回を迎える「アザレアのまち音楽祭2011」が、今年も盛大に開催されますことを心からお喜び申し上げます。
 「アザレアのまち音楽祭」は、「地元在住及び地元出身の芸術家を育成し、私たちのまちの音楽家として敬愛し、共に音楽の喜びを分かち合える豊かな生活環境を作り出す」という目的のもと、倉吉文化団体協議会の力を結集して運営される音楽祭として、長年にわたり多くの聴衆に感動を与えてこられました。今では倉吉を代表する春の風物詩としてすっかり定着し、音楽祭の開催をとおして本市の芸術文化の振興に貢献されてきた関係者の皆様の多大なご尽力に対して深く敬意を表する次第です。
 近年、個人のライフスタイルの変化等により、人と人との結びつきが希薄になってきたと指摘されていますが、精神的・文化的に豊かな生活を営むためには、地域社会とのつながりは大切な要素であると思います。地域に根ざした芸術活動は、「心と心をつなぐ架け橋」としての役割を担っており、地域への誇りや愛着を深めるきっかけとなる尊いものであります。市民が主体となり、地域コミュニティの力を結集して運営される「アザレアのまち音楽祭」が毎年開催されていることは、たいへん有意義であり、市としましても協働して取り組んでまいりたいと考えております。
 今後とも、市民の皆様をはじめ、関係者の方々の変わらぬご支援とご協力をお願い申し上げますとともに、「アザレアのまち音楽祭」が地域に密着した音楽祭として、ますます発展していくことを心より祈念して、お祝いのご挨拶といたします。